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「見ろ、朝蜘蛛だ!」
元気な子どもの声に、わたしは屋根の上を見上げた。
​そこには、朝に滅多に起きてこないから朝にその姿を見たら幸運だという理由で貧民街の仲間たちに「朝蜘蛛」とあだ名を付けられた男の子が、大欠伸をしながら立っていた。
「にいに!」とわたしが手を振ると、彼は手を振り返してくれる。
お顔はよく見えないけど、今日も元気でよかった。
男の子は「誰が朝蜘蛛だァ!?」と屋根の上から怒鳴っている。
「にいに! にいに! ごめんなさい! ごめんなさい!」
わたしは倒れている男の子に覆い被さるようにして泣いて謝る。
男の子の顔は長い前髪に隠れてよく見えないけど、
わたしを庇ったときに右のこめかみ辺りにできた傷から血がたくさん出ている。
「謝んなくていいよ。
俺ら貧民街の子どもは助けあって生きてくんだから」
「にいに、次はわたしが守るよ」
「それは頼もしいなあ」
​男の子の口元が弧を描く。
「トヨ、お前にやるよ」
​自分よりはるかに背の高い男の子がわたしに小刀を差し出す。
やっぱりお顔はよく見えない。
「お前も大きくなってきたからな。
俺もいつまで一緒にいられるかわからないし、自分のことは自分で守れないと」
「朝蜘蛛はどこかへ行ってしまうものなのね」
男の子はずっと上の方で困ったように頭を掻いた。
「お前までそんなあだ名で呼ぶなよ。
​いいか、俺の名前はーー」
音太郎さん……。
お名前を呟こうとすると、血に濡れた唇が滑る。
視界に映る宿の床では、際限なく広がる自分の血が揺蕩っている。
夜蜘蛛だなんて、嫌な名前だわ。
あなたは、朝蜘蛛。
私の命の恩人。
どうかどこまでもお逃げになって。
いつまでも幸せに生きて。
目を開けていられなくなってくる。
もうおわりが近づいている。
​ああ、悔いなんてないわ。
​【終】
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